亜炭鉱の出水事故を伝える喜婦嶽の慰霊碑

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長久手における亜炭鉱の分布を調べたことがきっかけで、長久手の亜炭産業史に興味が湧いてきました。といっても、亜炭鉱跡が残されている場所はありませんし、亜炭の採掘に関する文献も乏しいのが実情です。

それでは、長久手市内には亜炭産業の歴史を伝える史跡は一切無いのかというと、そうでもありません。というわけで今回は、市内で唯一?の亜炭関連史跡である喜婦嶽(きぶたけ)亜炭鉱跡の慰霊碑を訪ねてみました。

長久手南小と南中の間に立地する喜婦嶽の慰霊碑

喜婦嶽(きぶたけ)の慰霊碑があるのは、長久手市長配1丁目の小公園内です。ここは、北に100m歩けば長久手私立南小学校、南に100m歩けば長久手私立南中学校があるという文教地区です。

昔はこのあたりに喜婦嶽という山があり、そこに亜炭を採掘する喜婦嶽炭鉱がありました。喜婦嶽炭鉱での採掘中に起きた事故によって亡くなった方々の慰霊のために、慰霊碑が建立されました。

現在では、区画整理によって喜婦嶽山も炭鉱もなくなり、慰霊碑だけが残されています。

13人が生き埋めになった長久手亜炭鉱事件

喜婦嶽の慰霊碑が建立された理由は、喜婦嶽炭鉱で起きた事故の犠牲者を慰霊するためです。

事件が起きたのは、リットン調査団が来日した昭和7(1932)年の5月5日。坑道にあった古い杭を掘ったところ水が噴出し、採掘に従事していたうちの約半数である13人が生き埋めになりました。消防や警察等による排水・救護が行われましたが、一週間以上経過しても一人も発見することができず、13人の遺体はそのまま地下70mに残されることになりました[1]

寄進を受けて建立された地蔵尊と阿弥陀仏

この痛ましい事故により亡くなった方々を弔うため、喜婦嶽の山上に地蔵尊と阿弥陀仏が建立、同年8月に除幕されました。地蔵尊は名古屋在住の郷友会の方々から、阿弥陀仏は春日井市勝川の満勝寺からの寄進を受けたものです[1]

喜婦嶽炭鉱跡の地蔵尊
喜婦嶽炭鉱跡の阿弥陀仏

郷友会からの寄進は理解できますが、なぜ満勝寺から寄進を受けたんでしょうか。手元の資料にはその理由は記されていません。満勝寺がある春日井市も亜炭の採掘が盛んであった地域です。同様の事故が春日井市でも起きており、長久手の事故にも心を痛めて寄進してくれたのかもしれません。

ちなみに、インターネットで調べた限りでは春日井市に満勝寺というお寺は見つかりませんでした。すでに廃止されてしまったのでしょうか。

区画整理による移設と由来碑の建立

もともとは炭鉱があった喜婦嶽山に建てられた慰霊碑ですが、昭和50(1975)年の区画整理により山が削られ、8m下がった現在の場所に移されました。

しかし、この慰霊碑の由来が分からない近隣住民が増えてきたため、昭和56年に木製の標示板が立てられました。また、平成2(1990)年には石造の由来碑に置き換わり、現在に至ります。

郷土資料室の開館が待ち遠しい

今回、喜婦嶽の慰霊碑を尋ねたあとに、長久手市の郷土史資料室にも足を運びました。ここでは、長久手で行われていた亜炭採掘の様子が、ジオラマや実際に使用された道具とともに紹介されています。

こうした資料が展示されている場所は他に無いので非常に期待していたんですが、下の写真をご覧ください。

まさかの「閉館」の張り紙が!あとで長久手市のウェブサイト[2]を確認すると、郷土資料室が立地する古戦場公園の再整備に関連して現在は閉館中で、開館は2020年の4月からだそうです。

令和元年6月1日より郷土資料室は閉館しています。(但し、書籍の販売、パンフレット類の配布、史跡巡り用自転車の貸出しは実施中です。)令和4年度供用開始を予定していました新施設は、古戦場公園再整備事業の見直しにより、令和5年度以降に建設時期を見直すこととなりました。それに伴い、郷土資料室を令和2年4月より開館することになりました。

長久手市ウェブサイトより

ということで、亜炭展示の見学は4月に先送りになってしまいました。せっかく閉館しているので、より充実した形でカムバックしてくれることを期待しています。

参考文献

  1. 長久手町郷土史研究会(1991)翔く 長久手のあゆみ.
  2. 長久手市ウェブサイト 郷土資料室(2020年2月14日閲覧).

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